ある英語教師の手帳

困った新米英語教師が一人前になるまでの10年の記録

肉野菜炒め定食――大事なものに気づかせてくれた

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 先日、仕事で遅くなったので、主人が子どもに夕飯を食べさせてくれることがあった。その段階で私には、「家に帰ってひとりでご飯を食べる」と、「ご飯屋さんに寄って帰る」のふたつの選択肢が与えられたのであるが、後者を取った。家からすこし離れて、ご飯を食べたいと思ったのだ。これといった理由はない。

非日常を求めていた。

 学童期の子供をもつ母親は、常に「今日は学校どうだったの」「残さず食べなさい」と、良く言えば子どもたちとのコミュニケーションをとりながら、悪く言えば常に心をあっちこっちに飛ばしながら、食事を摂るものだ。静かに食べられたらいいのに、と思わないでもないのだが、子どもと話しをするのがどうしても夕飯時となる共働き家庭では仕方がない。さらに学校給食においても、「食育」と称して食事時でのコミュニケーションを推奨するきらいが少なからずある。

いずれにせよ、そんな喧騒から離れて、静かに食べたいと思ったのだ。

車を停めたのは近所のちいさな食堂。

暖簾をくぐる。マホガニー材の木製カウンターに腰掛けて、メニューを選ぶ。

テレビの音が静かに流れている。大学生風の二人連れが食事をしている。カウンターの中では、ご主人が無言で料理をしている。

運ばれてきた食事は、最高のものだった。

大ぶりに切られた野菜とやわらかな豚バラ肉に、他では食べられない絶品たれとごま油が絡んだ、肉野菜炒め。大盛りのごはん。温かな味噌汁。自家製のお新香。

口に運ぶ。肉の柔らかな脂が口の中でほどけていく。ぱきりと嚙みきったピーマンの鮮やかさが脳裏にはじける。

シンプルな中に、あり得ないほどの美味しさと滋養が詰まっていた。

私は静かに手を合わせた。食べ物に静かに向き合って、目の前に出された食べ物のことだけを考える。私のためだけに用意された食事が、心に沁みわたっていく。

こんなに静謐な食事は久しぶりだった。

 

帰り道、私はとても満たされた気持ちだった。

おそらく何の変哲もない定食だったのだ。けれども、胸に沸き上がったこの感動はほんものだ。

楽しいと思っていた。負けないと思っていた。子育てに、仕事に、家事に、読書やブログといった知的生産活動にすら、私はこんなにも疲弊していたのか。

子育ても、仕事も、家事も、知的生産活動も、私にとって大切なもの。それらが

ない生活は、到底考えられないものだ。しかしながら、日々頑張っていればいるほど、雨の日も風の日も回り続けた歯車が少しずつさびついてくるように、どうしても歪みが生じてくる――心にも、身体にも。

それをときおり、少しの非日常に身を置くことで、リセットしてあげる。

そういうことは、きっと丁寧な暮らしを紡ぐ、たいせつな営みの一部なのだ。