職員室での立ち回り方――何かあったら一言入れる。
今回のテーマは「何かあったら一言入れる」である。
なぜ、「一言」の断りが大事なのかというと、
それは、「人間が大事にされている」という気持ちをくすぐるからだ。
それだけに、「一言」がないと、「言ってくれれば良いのに」と相手のことを良く思わなくなり、いらいらしてしまう。
人間は、無視されることを何より嫌うのだ。
実例1
クラスの中でも発言力のある勝ち気な女子が休んでいるときに、勝手に席替えをしてしまった。それは急に決まったことで、LHRのネタが無くて苦し紛れにおこなった席がえだった。彼女はくじ引きで、よりによって一番前の席になってしまった。隣は気の弱い女子のクラスメイトとなった。
翌日、学校へ登校した彼女は、席が替わっていることに驚いた。
担任は、そのことについて電話も入れなかったのだ。
彼女は担任への信頼を一気に失った。心や言動も荒れて、授業態度などもひどくなってしまった。
実例2
今度は教師の場合で見てみよう。今年からあなたは英語科主任になり、校内で新しい事業を始めることになった。ディベート大会、弁論大会――何でもあり得ることだ。
仮に英語ディベート大会としよう。
そこで、英語科のあなたは他教科の先生方にも、(全員にはなかなか無理かも知れないが、)おりにふれ新しくディベート大会に出場するんですよ、と雑談がてら、話をしておくことにした。数学科、社会科、理科などだ。少なくとも主戦力となる2年生の受け持ちの先生方には、話を通しておいた。
すると、いいことがあった。
ディベートのお題が、「移民制度の是非」を問うものだったのだ。完全に専門外のあなたは、社会科の先生に、特別に出前講義をお願いした。事前に話を通しておいたので、快諾して貰えた。
さらに、練習を重ねていく中で、ディベートの論理構成力にも問題が生じた。その際には、数学科の先生に論理を教えて頂くことで、お世話になることが出来た。事前に一言言っておいたからである。
チームで事を行う際の、スムーズな人間関係のために
「は?無視かよ」という気持ちにさせてしまうと、協力が得られないどころか、恨みを買うこともある。
余計かな?と迷ったときは、話をしておくに越したことはない。
誰もが主人公になりたいし、頼りにされたいのだ。輪があれば、中に入れて貰いたいと思うのは人情。そこを上手く利用してやれば、世渡りがもっともっとうまくなる。
肉野菜炒め定食――大事なものに気づかせてくれた
先日、仕事で遅くなったので、主人が子どもに夕飯を食べさせてくれることがあった。その段階で私には、「家に帰ってひとりでご飯を食べる」と、「ご飯屋さんに寄って帰る」のふたつの選択肢が与えられたのであるが、後者を取った。家からすこし離れて、ご飯を食べたいと思ったのだ。これといった理由はない。
非日常を求めていた。
学童期の子供をもつ母親は、常に「今日は学校どうだったの」「残さず食べなさい」と、良く言えば子どもたちとのコミュニケーションをとりながら、悪く言えば常に心をあっちこっちに飛ばしながら、食事を摂るものだ。静かに食べられたらいいのに、と思わないでもないのだが、子どもと話しをするのがどうしても夕飯時となる共働き家庭では仕方がない。さらに学校給食においても、「食育」と称して食事時でのコミュニケーションを推奨するきらいが少なからずある。
いずれにせよ、そんな喧騒から離れて、静かに食べたいと思ったのだ。
車を停めたのは近所のちいさな食堂。
暖簾をくぐる。マホガニー材の木製カウンターに腰掛けて、メニューを選ぶ。
テレビの音が静かに流れている。大学生風の二人連れが食事をしている。カウンターの中では、ご主人が無言で料理をしている。
運ばれてきた食事は、最高のものだった。
大ぶりに切られた野菜とやわらかな豚バラ肉に、他では食べられない絶品たれとごま油が絡んだ、肉野菜炒め。大盛りのごはん。温かな味噌汁。自家製のお新香。
口に運ぶ。肉の柔らかな脂が口の中でほどけていく。ぱきりと嚙みきったピーマンの鮮やかさが脳裏にはじける。
シンプルな中に、あり得ないほどの美味しさと滋養が詰まっていた。
私は静かに手を合わせた。食べ物に静かに向き合って、目の前に出された食べ物のことだけを考える。私のためだけに用意された食事が、心に沁みわたっていく。
こんなに静謐な食事は久しぶりだった。
帰り道、私はとても満たされた気持ちだった。
おそらく何の変哲もない定食だったのだ。けれども、胸に沸き上がったこの感動はほんものだ。
楽しいと思っていた。負けないと思っていた。子育てに、仕事に、家事に、読書やブログといった知的生産活動にすら、私はこんなにも疲弊していたのか。
子育ても、仕事も、家事も、知的生産活動も、私にとって大切なもの。それらが
ない生活は、到底考えられないものだ。しかしながら、日々頑張っていればいるほど、雨の日も風の日も回り続けた歯車が少しずつさびついてくるように、どうしても歪みが生じてくる――心にも、身体にも。
それをときおり、少しの非日常に身を置くことで、リセットしてあげる。
そういうことは、きっと丁寧な暮らしを紡ぐ、たいせつな営みの一部なのだ。
ミニマリストをはじめて1ヶ月 目指す私が手放したもの。
ミニマリストを初めて1ヶ月になる。
私が今月、手放したものを書いていく。
手放したモノ
・インスタント珈琲、マリーム
常々、「おいしくないかも」とは思いつづけていた。それでも、習慣を断ち切るのはなかなかできないものである。惰性でなんとなく「朝は珈琲でないと」と信じていた部分もあって、どうしても手放すことが出来なかったのだ。
でも、瞑想をしながら
「本当に、あの珈琲で身体が喜んでいるか?舌が喜んでいるか?」
と静かに問いかけていくと、やはり手放すべき、と勇気が出た。
幸い、私は水の綺麗な土地に住んでいる。毎日恵まれる澄んだ水や、それで淹れたおいしいお茶で、じゅうぶん事足りるのではないかと考えたのだ。
・外でペットボトルの飲み物を買って飲む習慣
もともとマイボトルは持ち歩いているのだけれど、結局買う習慣はやめられなかった。なんとなく、外で買って飲む姿に現代的モダニズムを感じて、なんとなく格好いいような気がしていた。
けれども、買えば買うほど小銭は出て行く。
一度つかったきりのペットボトルを作るのに、処分するのに、リサイクルのために、地球にどれだけの負担がかかっているのかと考えた際に、やはり積極的に買う決断には至れなかったのだ。
ペットボトルをやめればゴミも減るし、摂取カロリーも減っていく。家で沸かして飲む生活に切り替えた。
要らないのに摂っているカロリー
多くの場合、カロリーを欲しているのは身体ではなく頭である。
私は幼少期から、物質主義の祖母と食べさせたい母親に育てられていたこともあり、身体の感覚が人より鈍感である。少なからずとも彼らの病理が私の精神にも、肉体にも影響している。いずれにせよ鈍い身体の声に、もう少し耳を傾けてみようと思ったのはつい最近の事なのである。
食べる前に、じっと考える。
本当に、身体がその食べ物を欲しているのか?
ストレスを感じたから?
仕事の終わりだから?
ただ単に食事の時間だから?
あなたがそれを食べる理由は何?
すると、やはりそのカロリーは、身体を動かすのに必要ないことが多いのだ。
子どもたちの食事は?
子どもたちにも同じように、食べたいときに食べるようにすすめている。
栄養バランスを自分で考え、自分でほしいぶんだけ自分の器にとり、食する。
ただ社会生活上、どうしても食事の時間は決まるから、時間帯の制限は設ける。
子どもたちも自分の身体に耳を傾け、自分が欲している量だけ食べるように言っている。
食事が終わったら、丁寧に手を合わせて、片付けをするように声をかけている。
新しく取り入れたもの
・東方美人茶、茉莉花茶のティーバッグ
水出しでもお湯出しでも可能なタイプを選び、あらゆる場面に順応できるようにした。
メンタルも身体もしっかりと整えて、中から綺麗になっていきたい。
地球との調和、人々との調和を重んじながら、残りの人生を生きていきたい。
あるクラスのクラス目標に、疑問を感じた瞬間
皆さんのクラス目標は、なんだろうか。
誰でも4月当初にクラス目標を決めると思うのだが、私が今まで出会った中で「?」と感じたクラス目標がある。それは
「愛されるクラスになろう」
である。
この違和感について、今日はお話ししていきたいと思う。
「愛される」は、どこに意識が向いているか
「愛される人になろう」というのは、どこかの自分磨きセミナーでもありそうな発想である。だが、その程度のセミナーはえてして三流である。
このクラスも三流であった。途中で授業崩壊して、中退者こそ出なかったが、授業も行事もなにひとつまともに行えなくなっていた。「愛されるクラス」とやらを目指した結果である。
「人に愛してもらえる人間になろう」とは、つまり、相手次第なのである。当然、「愛してくれる人がいる」から、「愛される」という状態が成立するのであり、判断するのはいつも相手。相手に合わせて、相手の気に入るように振る舞うということである。まるでぬいぐるみか人形だ。愛されなくなった人形は捨てられるのである。
「愛されるクラス」がダメな理由
当然、「愛してくれる人がいる」から、「愛される」という状態が成立するのであり、
ということは、この目標が示唆しているのは、
相手が自分を「愛してくれる」ような行動を取らなければならないということ。
つまり、相手の物差しに自分を合わせるという事に他ならない。
この先生は社会性を身につけたかったのだろう。確かに一旦、生徒の目を外へ向けるという点では間違ってはいないかも知れない。
だが、それは生徒が自主的に選び取ったものではない。「愛してもらうというご褒美がほしいからこういう行動を取ったまで」ということではないだろうか。
もしそうなってしまったら、生徒の命は、どこで幸せを感じるというのだろう。相手の物差しありきでしか、自分を考えられない人間にならないだろうか。
あまつさえ、それをクラス目標に据えるというのだから、それでいいのか?!と思わざるを得ない。
それに強く反発する生徒が多くいたから、クラスが崩壊したのではないかと考えている。
さらにこの担任、新婚にもかかわらずよからぬ関係を持っていると一部では噂されていた。職員室ではよく、パートナーと家を建てる計画の話などもしていたのに、実はその裏で上司と……そういう時期に掲げた目標が「愛されるクラス」である。人間というのは業が深いな、と思うわけである。
クラス目標は、どうあるべきか
最後にわたしの考える理想のクラス目標について述べていく。
ずばり、「相手がどうのこうのではなく、生徒が自分で主体的に考えて生きること、自分の幸せは自分で決めるというような哲学を感じるものにするべきだ」と考えている。
私の人生の愛読書に「渡辺和子」があるが、渡辺氏のあまりにも有名な
「置かれた場所で咲きなさい」
などは、私の価値観に合う。
周囲との比較生活のなかで幸せを見つけるのではなく、自分の道を行きなさい。
でも、他者との調和を忘れてはいけません。自分勝手は許しません。
他者との調和を考えた上で、自分だけの色の花を咲かせなさい。
私ならそう教える。生徒ひとりひとりが、しっかりと世の中に溶け込み、自分の信念を持って生きられるようにする。愛される事を第一目標になどせず、自分らしくまっすぐに生きた結果として、自分の価値観と合う人間と愛し合えばいいと思っている。
そして子どもたちの顔をみて、ぴったりの言葉を考え、クラスに掲げるだろう。
旅日記【相模湖公園〜さがみ湖プレジャーフォレスト】
湖面がキラキラ
遊覧船は貸切でした❤︎
コロナの影響もあって、散歩の人たちもまばら。
綺麗な景色に、癒されました♪
こんなレトロな感じのゲームセンターがあって、
場末な感じのホテルもあって…
心揺さぶられる趣でしたね😊💓
さてさて、プレジャーフォレストは!
個人的に、関東近辺ではかなりおすすめの遊園地でした。
💡子供たちのアスレチックが充実している💡
ここにあるのは、ビデオ映像や受け身のアトラクションなどの、いわゆるお仕着せの楽しみではありません。子供達がしっかりと身体を使って楽しむことができます。
こんなのとか
こんな迷路とか
しかもこの20種類ものアスレチック(ピカソのたまご)は、入園料だけ払えばあとは無料で楽しめるんです!!これは行くしか🏃🏻♀️
それから、冬季の楽しみといえば
✨イルミネーション✨
ちょうどポケモンコラボで、
そこらじゅうにポケモンたちが❤︎可愛かったです❤︎
関東近辺にお住まいの方は、ぜひ行ってみてはどうでしょうか。
⚠️コロナ対策については⚠️
消毒や間隔をあけてのアトラクション案内、
食堂でのアクリル板の設置など、
かなりしっかりと行われている印象でした。
お客さんも、昼間は若者だけのグループはほとんどおらず、親子連れのみ、
イルミリオンになると、カップルも多く見られていましたね。
マスクはほぼ皆さんしていましたがウレタンマスクが多かった印象。マスクしてないお姉さんもいましたね…。
食事については、私は、食事は持参したお弁当を、オープンエアの公園でしっかり手を洗い間隔を開けた上で食べただけでした。
遊園地の園内では一切食べ物を食べませんでした。(ご参考まで…)
感染症対策をしっかりと行なった上で、感染拡大防止に努めながら、楽しむところは楽しむ!というスタンスでいきたいですね。
授業準備が全くできてなくて廊下で必死に教科書読んで教室入る、みたいな時に限って神授業ができたりする。
タイトルとあまり関係ないんですが 今日は
「自殺について」
お話していきたいと思う。
この記事は、
-
身近な10代の中高生が自殺を考えている
-
クラスの生徒や子供、友人、身近な10代が自殺するのではないかと思っており適切な対応が知りたい
-
自殺のリスクが高い10代の行動、および発見方法を知りたい
こんな方におすすめである。
10代の自殺について基礎データ
自殺の原因――いじめはたったの10%
「10代の自殺」と耳にすると多くの人が「いじめ」を思い浮かべるのではないだろうか?確かにそういう場合もゼロではないだろう。だが、それ以外の可能性を探らなくなってしまうとしたら、それは大きな間違いである。メディアは自殺の原因をすぐに「いじめ」に結び付けたがる。だが、実際の理由として多いのはもっと他にある。
「進路問題」「家庭問題」「成績不振の問題」である。
これらはいじめ以上にありふれており、誰にでもありうることなのだ。
これに対する対応を間違えてしまうと、一気に自殺へ向いてしまいかねない。
自殺のリスクが高い人の典型的行動
自殺のリスクは、次の3つの因子がそろうと、はね上がる。
①自殺の潜在能力
家族問題がある/学業不振である/何らかの障がいを持っている/病気をもっている/格闘技経験がある(要するに、「痛み」に強い)
②所属意識が薄い
自分がその組織で必要とされている実感がない、ということ。
③自分がいるせいで周りに迷惑が掛かっていると思っている
先輩、同級生、上司にパワハラをされているなど。
以上1~3の因子がそろっている場合、生きる気力が全然ない場合がある。気を付けて接していこう。
自殺に向く子どものメンタル
自殺念慮の高い状態の子どものメンタルは、「心理的視野狭窄」&「両価性」という言葉で言うことができる。
「心理学的視野狭窄」とは、視野が狭くなっている状態、思い込みがきわめて激しくなっている状態のことだ。
「この辛い状態から早く楽になりたい」=「そのためには死ぬしかない」
こんな風に強く信じ込んでいる。願いの根本は「楽になりたい」なのだ。ほかにも方法があるんだぞ、という風に、彼らが考えられるよう、周りの人間は支援していくことが
大切だ。
そして「両価性」であるが、これは「死にたい」と願いつつも「生きたい、助けてほしい」という気持ちも併せ持っているという状態のこと。二律背反・アンビバレントということだ。どんな希死念慮の強い子どもも、心の奥では両価性を有しており、助けを求めているのだ。死=諦め、生きることこそ至高というような考えを押し付けるのではなく「相手から引き出す」「信じる」「根気よく待つ」ということも、周りの人間には求められるだろう。
リストカットと自殺企図
リストカットをするからすぐに自殺に向くかというと、当然ながら、そういうわけではない。想像がつくと思うがリストカットというのは自殺への第一歩だ。
①誰にも見えないところでリストカット
(切ると脳内麻薬が出て、ふわ~っとした感覚になる。悩みが遠ざかり、一時的にいい気持ちになれるのだ)
(周りにリストカットを察知されると、周りが自分を心配してくれたり、自分のために感情的になってくれる。リストカットをすれば、相手をしてくれるんだ、と学習してしまう。死なない程度にリストカットをくりかえし、誰かが自分を見てくれるという快楽にハマるようになる)
③自分もまわりもコントロールできなくなり、自殺へ
(やがて、「またやってんの」「構ってちゃんキメェよ」という反応をされるようになる。だが、いまさらリストカットを辞めることもできない。それ以外のコミュニケーション方法や気を引く方法がもはやわからない。かといって、リストカットをやめて、もともとの悩みや心の痛みと向きあうことなど考えられないほどの恐怖だ。追い込まれた末に、自殺をしてしまうことがある)
こんな流れとなる。
「リストカットなんて放っておいたって平気平気。
どうせあの程度の傷じゃ死なないでしょ?」
これもめちゃくちゃ危険な考え方なので改めてほしい。
ある調査では、リストカットを10代のうちにしていた人間が、10年後までに自殺企図をする確率というのは、そうでない人間の700倍にもなるのだから。
自殺リスクの高い10代にはどう接すればいいの?
では、自殺リスクの高い10代にはどう接していけばいいのだろう。
■ 「SOSの出し方教育」の実施
教育関係者のかたであれば、SOSの出し方教育をしていくのも有効だ。(推進している県もあります。詳しくは、保健部や教育相談部の先生などにお尋ねください)
■ 「話を聞いてほしそうなサイン」を見逃さない
じっくりと腰をおちつけて、相手の話を聞いてあげよう。
■ 子どもが話し始めたら絶対にさえぎらない。
■ 子供の話を否定しない。
特に男性のかたに多いのだが、「相談されているんだからきっちり答えを提示しなくちゃ」「ダメな部分を正してあげなきゃ」というのはNGだ。躍起になればなるほど、相手を追いつめてしまう。
■ (自殺未遂などを)「もうしないって約束して」などと、無意味な約束を強要しない。
よくこういう事を発言する人がいるが、無意味だということを心に留めてほしい。これはむしろ支援者側の精神の安定のために出がちな言葉だと言われている。約束は相手にとってプレッシャーになる。やめよう。
■ 助けを求めた行動を評価してあげる。
ダメな行動は短く冷たく指摘し、望ましい行動は思いっきり上げてほめて強化する。教育学の鉄則だ。
■ 逆に、「泣く」「わめく」などの感情的な行動には絶対に出ない。淡々と。
教育業界では、子どもの自殺念慮には「外科医のように対応しろ」と言われる。外科の先生は病院で「なぜこんなけがをしたのか」、「状態はどうか」、などのことを淡々と訊ねることはしても、「ダメよー!!!」などと声を荒げて泣いて叫んだりは絶対しない。むしろ、淡々と迅速に、目の前の患者のことだけを見て、
「私、失敗しないので」
と、ガツンとやるのが外科医である。そういうふうな対応でいいのだ。「自殺念慮を表に出せばみんなが心配してくれる」なんて、子どもが味をしめるようなことではいけない。
しっかりと「つなぐ」。
上記のことを実行し、目の前の命をつないだら、しかるべき機関へと、子どもをつないでいきます。
といったところへ、すみやかに電話等で連絡しよう。
子どもがちゃんとそこへ相談に向かうための道筋(電車やバスなどの場合、運賃も含めて大丈夫か、車で送る場合は確実に送り届ける)も、確保してやることが大事だ。一人で行かせて、平気だと思っていたら、途中で……ということもなくはない。何事も確実に着実にが鉄則だ。
言うまでもないことだが、保護者にもしっかりと入ってもらおう。(ただし、相手が毒親等の不適格者だった場合には話は別だ。しっかりと子どもを守ろう)
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デキル英語教師の最低条件10~その5~
デキル英語教師の最低条件
全10回の連載、5つ目の条件は、
⑤ 生徒が間違いやすいのはどこかを知っていて、それをしっかりと押さえた上で授業ができる。
ツボを押さえているということである。
これをしているのとしていないのとでは、授業の質が変わる。
これは、経験がものをいう。一回一回の授業を流さずに全力で取り組んでいくことだ。そうすれば、だんだんと覚えてくる。3年くらいはかかるはずだ。そうやって多くの生徒を教えれば、「その年代の生徒によくあるマチガイパターン」が、自分のなかに(目に見えなくても)蓄積されてくるものなのだ。若手の先生方、焦っちゃだめですよ!
たとえばよくある読み間違いとしては
finalを「フィナル」
patientを「パティエント」
throughoutと見るともう「読みすらしない」
こんなミスが、偏差値60の、「学びの速度のわりと速い系高校」で起きるのだから世話はない。(けれども地頭のいい生徒は、学びに対して前のめりなので、教えれば割とすぐに飲み込んでくれる。念のため)
初めて教えるクラスでも、発問への反応や机間指導の取り組み状況、課題の取り組み状況など、とにかく観察する手間を怠らないことが、生徒を理解するためには大切だ。
でも、新米教師であれば経験がないんだもの、そんなはったり利かせられるかってそりゃ無理な話だ。心配しなくていい。誰でも最初はそう。あそこで偉そうな顔してる校長教頭、ムカつく先輩だってオドオドしてた時期は確実にあった。
魔法の言葉を伝授しよう。
その① 「ここはね、みんな間違うんだよ」
その② 「高校でやる基礎の文法を全マスターすれば、日常英語で使われる全文法の95%は網羅できる!残りの5%は特殊な修辞法や文学的表現だけだ」
その③ 「最初はみんな全然できなくてね…(かつての教え子たちを見るような、なるべく遠い目をするのがポイントである)でもみんな、真面目にこれに取り組んで化けていったんだよ…(頑張らせたいドリルか単語帳か何かを指さしながら)」 ※新任でも若手でも経験なしでもオタクでもロリコンでも関係なく、生徒は教壇に立った瞬間に我々を「先生」として見ます。彼らに「俺はプロやぞ」と信じ込ませるためには、嘘も方便です。
そして、すべての最後に心の中でこう言いましょう。
「ゴチャゴチャ言わずに俺について来い」
わかってなくても、「俺は分かってるぞ」
自信がなくても「俺はプロやぞ」
そういう「はったり」が、あなたの放つ「教師としてのオーラ」を強め、重みのある指導にもつながっていく。そういう部分、少なからずあると思いますよ。
心にいつも、「林修先生」を飼っておくといいのかもしれない。自信満々の語り口でいくのだ。マツコも林先生もIKKOも、飼い始めて長い。
ちなみに最近飼い始めたのは、都市伝説の「関先生」ですね。だからついつい「~だよね!」という語尾になりがちだし、「信じるか信じないかはアナタ次第!」って生徒の顔見て言いたくなっちゃう。いやいや。ちゃんと教科書に載ってることを教えてますから!!(笑)
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