ある英語教師の手帳

困った新米英語教師が一人前になるまでの10年の記録

あるクラスのクラス目標に、疑問を感じた瞬間

皆さんのクラス目標は、なんだろうか。

誰でも4月当初にクラス目標を決めると思うのだが、私が今まで出会った中で「?」と感じたクラス目標がある。それは

 

「愛されるクラスになろう」

 

 である。

この違和感について、今日はお話ししていきたいと思う。

 「愛される」は、どこに意識が向いているか

「愛される人になろう」というのは、どこかの自分磨きセミナーでもありそうな発想である。だが、その程度のセミナーはえてして三流である。

このクラスも三流であった。途中で授業崩壊して、中退者こそ出なかったが、授業も行事もなにひとつまともに行えなくなっていた。「愛されるクラス」とやらを目指した結果である。

 

「人に愛してもらえる人間になろう」とは、つまり、相手次第なのである。当然、「愛してくれる人がいる」から、「愛される」という状態が成立するのであり、判断するのはいつも相手。相手に合わせて、相手の気に入るように振る舞うということである。まるでぬいぐるみか人形だ。愛されなくなった人形は捨てられるのである。

  

「愛されるクラス」がダメな理由

当然、「愛してくれる人がいる」から、「愛される」という状態が成立するのであり、

ということは、この目標が示唆しているのは、

相手が自分を「愛してくれる」ような行動を取らなければならないということ。

つまり、相手の物差しに自分を合わせるという事に他ならない。

 

この先生は社会性を身につけたかったのだろう。確かに一旦、生徒の目を外へ向けるという点では間違ってはいないかも知れない。

だが、それは生徒が自主的に選び取ったものではない。「愛してもらうというご褒美がほしいからこういう行動を取ったまで」ということではないだろうか。

もしそうなってしまったら、生徒の命は、どこで幸せを感じるというのだろう。相手の物差しありきでしか、自分を考えられない人間にならないだろうか。

あまつさえ、それをクラス目標に据えるというのだから、それでいいのか?!と思わざるを得ない。

それに強く反発する生徒が多くいたから、クラスが崩壊したのではないかと考えている。

さらにこの担任、新婚にもかかわらずよからぬ関係を持っていると一部では噂されていた。職員室ではよく、パートナーと家を建てる計画の話などもしていたのに、実はその裏で上司と……そういう時期に掲げた目標が「愛されるクラス」である。人間というのは業が深いな、と思うわけである。

 

クラス目標は、どうあるべきか

 最後にわたしの考える理想のクラス目標について述べていく。

ずばり、「相手がどうのこうのではなく、生徒が自分で主体的に考えて生きること、自分の幸せは自分で決めるというような哲学を感じるものにするべきだ」と考えている。

私の人生の愛読書に「渡辺和子」があるが、渡辺氏のあまりにも有名な

 

「置かれた場所で咲きなさい」

 

などは、私の価値観に合う。

 周囲との比較生活のなかで幸せを見つけるのではなく、自分の道を行きなさい。

でも、他者との調和を忘れてはいけません。自分勝手は許しません。

他者との調和を考えた上で、自分だけの色の花を咲かせなさい。 

私ならそう教える。生徒ひとりひとりが、しっかりと世の中に溶け込み、自分の信念を持って生きられるようにする。愛される事を第一目標になどせず、自分らしくまっすぐに生きた結果として、自分の価値観と合う人間と愛し合えばいいと思っている。

そして子どもたちの顔をみて、ぴったりの言葉を考え、クラスに掲げるだろう。